遅ればせながら、親ガチャについて書きたいことができたので筆を執ることにした。
そうは言っても親ガチャの中身について深く踏み込むつもりはない。
なぜなら、待っているのはいくら踏み込んでも底のない沼地だからだ。
語りたいと思ったことは以下のとおりである。
- 親ガチャの概念は新しいものではない
- ガチャという用語が普及した歴史
- 親ガチャはごくごく普通の発想である
よろしければお付き合い願いたい。
ガチャの歴史
親ガチャという用語が誕生した(呼ばれ始めた)のは、ガチャ文化が多くの人に認知されたことが発端であると考えられる。
それではガチャ文化はいつからどこから生まれたのだろうか?
まずはガチャの歴史について復習するところから始めて行きたい。
ガチャは昔から存在している
ガチャとは複数の異なる結果が用意された何かを引くことである。
すなわちくじびきだ。
くじびきは主にたくさんのハズレくじの中に含まれた少数のアタリくじを引くことを目的としている。
くじびきでは景品がもらえたり、罰ゲームの対象になったりと、様々な場面で汎用的に用いられる。
調べたことがないため正確なことは分からないが、くじびき自体はかなり昔から存在しているのではないだろうか。
例えば、グーの形にした両手を差し出して、「小石を握っている手はどっちだ?」と聴けば、それもくじびきの一形態と言える。
特別な準備をしなくても成立する仕組みである以上、古くは存在しなかったと言う方が説得力がないだろう。
ガチャの語源はガチャガチャ
くじびきのシステムを採用した抽選機がスーパーマーケットなどに設置された。
数百円を投入してレバーを回すと排出口から商品が出てくる機械、カプセルトイだ。
カプセルトイのレバーを回す際にガチャガチャといった音が鳴ることから、語感の良さも相まって、一般的にはガチャガチャと呼ばれることの方が多いだろう。
後にガチャに近しい呼称でさまざまなゲーム内に実装されることになる。
つまり、カプセルトイのガチャガチャ音が語源となり、ガチャが生まれたのだ。
ガチャガチャはクレーンゲームなどと違ってゲーム性がないため、このシステムにも問題はあるような気もするが、実態として特に問題視はされていなかったはずだ。
問題視されなかった理由としては、消費する金額が控えめであること。
明確にアタリとされる景品はなく、ハズレかアタリかは購入者の感性にも依存したためだと考えられる。
収集癖のある人でもなければ、極端に消費が生まれることはないだろう。
また、カードゲームは子どもをメインターゲットにしながらもレアカードの概念があるため、個人的には好ましくない販売方法であると感じているが、反面では子どもの資金力では高額を消費することができなかったからこそ問題視されなかったとも考えられる。
…ガチャガチャに対する見解はひととおり話し終えたので本題に戻る。
いわゆる【ガチャ】の歴史は浅い
ガチャと言う名称が広まったきっかけ、あるいは悪い文化をつくる先駆けとなったのは2003年にサービスが提供され始めたMMORPG(オンラインゲームの一種)のメイプルストーリーだと言われている。
つまり、メイプルストーリーが基本プレイ無料&アイテム課金制の先駆者なのだ。
以降はガチャを採用したオンラインゲームが増産され始めた。
おそらく儲かるのだろう。
しかし、オンラインゲームのようにプレイヤーが継続的に消費をする仕組みは売り切り志向のコンシューマーゲーム(家庭用ゲーム機)とは真逆のセールス方法であったうえに、当時はインターネットでがっつりとゲームを遊ぶ層がまだまだ少なかったため、2005年前後の時点では、ゲームにおけるガチャの文化はまだまだ大衆的な認知がなされていなかった。
スマートフォンがガチャを広めた
2007年ごろから携帯市場にガラケーに変わる存在が現れ始めた。
スマートフォン(略称スマホ)だ。
スマホはあっという間に携帯市場を侵攻し、もともと日本で普及していたガラケーを追いやり、なり替わり、多くのユーザーを獲得することに成功した。
また、メールに変わる連絡手段としてLINEというアプリが誕生したことで、スマホユーザーはガラケーユーザーに連絡が取りづらくなり、ガラケーユーザーはスマホへの移行を行わざるを得なくなった。
余談だが、LINEもメイプルストーリーも韓国企業がつくったものだ。そして、現状厳しい競争社会になっているのも韓国だ。親ガチャとの不思議な因果関係を感じずにはいられない。
このような経緯があり、現在ではガラケーユーザーの方が少数派となっている。
そしてスマホユーザー人口の拡大を受け、スマホ向けゲームアプリが競うようにして開発され始める。
スマホ向けのゲームアプリとしては、2012年にリリースされたパズル&ドラゴンズ(略称パズドラ)が有名だろう。
このあたりの時期から、コンシューマーゲームを遊ばない人もスマホでゲームを遊ぶようになった。
そして、スマホ向けのゲームは基本プレイ料金が無料であることが多い。
理由はもうお分かりだろう。
一部アイテム課金型、つまりガチャで利益を生むことが主流となったのだ。
こうしてスマホユーザーたちの間ではゲームアプリが流行るようになり、同時にガチャという存在が広く周知されるようになったのだ。
また、TwitterなどのSNSを介した拡散力もその一端を担っている。
親ガチャはキャッチーな造語だが、内容は新しくない
ガチャの歴史をまとめると以下のようになる。
2003年に最初のガチャが誕生。
↓
2007年ごろからスマホが普及し始める。
↓
2012年前後からガチャのあるスマホ向けゲームアプリがたくさんリリースされる。
↓
2021年になって親ガチャというインターネット・ミームが生まれた。
親ガチャ。
親にアタリとハズレをつける。
実にキャッチーな造語だ。
だが、概念的には「格差」と「くじびき(出自の運)」を足し合わせたものであり、発想や考え自体は昔から存在していたはずだ。
ただ、過去の時代にはインターネットのような不特定多数の集合知を得られる場がなかったため、それを指し示す単語が存在しなかっただけだ。
また、村社会のような小さな集合体の中で、他の家庭との格差を示すような発言をするのは心理的に難しかったとも考えられる。
地域ごとにじゃんけんのかけ声が違うように、ある地域でのみ親ガチャに相当する用語が使われていたとしてもまったくおかしな話ではない。十分に考え得る話だ。
例えば、数年前にタピオカジュースが話題になったことは記憶に新しいだろう。
だが、タピオカジュースはそれよりも昔に流行したことがある。
知らない人が多いだけだ。
親ガチャもタピオカジュースと同じだ。
過去から存在する社会問題が、再び問題提起されるようになっただけの話なのだ。
親ガチャは全人類が一度は考えたことのある問題
「親ガチャという言葉や発想はけしからん!」
筆者はそのような発言を聴いたことはないのだが、もしかしたらそのような論調もあるのかもしれない。
しかし、けしからんと一喝して終わらせてしまう方が「けしからん」はずだ。
なぜなら、親ガチャは全人類が無意識に考えたことがあるはずの問題だからだ。
- 例えば、誕生日にプレゼントを贈る家庭。
- 例えば、子どもを塾に通わせる家庭。
- 例えば、子どもの自由意思を尊重する家庭。
- 例えば、おもちゃを自由に買い与える家庭。
- 例えば、子どもがわがままを言える家庭。
- 例えば、家族旅行に行ける家庭。
- 例えば、毎日毎食美味しいご飯が食べられる家庭。
これらに当たり前や普通は存在しない。
隣の芝生は青く見えると言うことわざが示すとおり、社会生活を営む以上は自分と他者を包む環境や境遇を一切比較することなく育つことはとてつもなく難しい話だ。
他者との比較なくして人格形成は成し得ない。
もし、家庭、個人ごとの格差をしっかりと考えたことがなくとも、無意識に感じたことは必ずあるはずだ。
それに、家庭を評価するにあたっては金銭的な事情が最も目につきやすいが、実際の格差問題は金銭面に限った話ではないのだ。
世の中には子どもを真夏の車内に置き去りにする親がいたり、子どもをすべて自分の理想どおりに育てようとする親がいたりする。
いわゆる毒親である。
また、親ガチャの反対で子ガチャとでも言えばよいのだろうか?
人を傷つける子どももいれば、いつまでも親に頼りきりの子どももいる。
これが現実であり、金銭面以外にもさまざまな評価基準が無数に存在する。
つまり、親ガチャに対して抱きやすいイメージとは異なり、実際にはアタリとハズレ、成功と失敗を簡単に二分できるものではないのだ。
親ガチャについてはネタ的に言及する人が多いのではないかと予測しているが、中には本気で言っている人もいるかもしれない。
しかし、本気で言っている人たちがいても、本当は(金銭面では)ハズレや(道徳観では)ハズレ、(教育方針では)ハズレなどの見えない括弧書きが付いているのではないだろうか。
親ガチャとは、他者と自分の環境を比較することであり、ごくごく普通の発想だ。
むしろ、他者と自分を比較することのないままでは、独善的な人格が形成されてしまったり、独善的な家庭環境を産み出してしまったりする原因にもなり得るだろう。
まとめ
親ガチャは新しく生まれた概念ではない。
スマホが普及した結果、キャッチーな造語の誕生により再掲されただけの人類普遍の問題である。
今どきの言い方をすれば、昔の投稿がリツイートされて再び注目されただけのことだ。
共産主義の理想、全人類の完全なる平等が現実的に成立不可能であるからには、親ガチャの考えは人類と切っても切り離せない切実な問題なのである。
最後に。
親ガチャ、すなわち【生まれによる格差問題】についてはここでは語らないこととする。
何千時間と議論したところで良い解決方法が見つからない問題だからだ。
ある意味、「どうでもいい」と切り捨てられる人の方が賢いとも言えるだろう。
もしかしたら語りたくなることもあるかもしれないが、その時はその時だ。
当記事は以上とさせていただきます。
ご清聴ありがとうございました。