近頃、【アニメ 進撃の巨人 The Final Season Part 2】を見ているのですが……この作品、世界観のキャッチーさとは裏腹に、非常に奥深さを内包した凄まじい作品であると改めて認識させられました。
何と言いますか……人間の本質を徹底的に引きずり出してやろう という原作者の鋼の意思を感じます。なにそれこわい。
そして、自分の中に湧きあがった感想をどうしても発信(共有)したかったため、今回はエレンの目的と選択についての感想を記事にすることにいたしました。
少し短めの記事ですがご容赦ください。
この記事は【 アニメ 進撃の巨人 The Final Season Part 2 第5話】のネタバレ前提で執筆されています。未視聴の方はご注意ください。また、筆者はそれより後の展開を知らずにこの記事を書いています。
エレンの目的、意外な選択
エレンは【The Final Season Part 2 第5話】にて始祖の力を掌握したことで、自らの目的が自分たち=パラディ島以外を滅ぼすことであると明かした。
率直に言って、筆者はこのエレンの選択を意外なことだと思った。
アルミンはエレンのことを信じているようだったが、筆者はジャンやコニーと同じようにエレンはジークの計画に乗ったものだと疑っていた(エレンの心情描写がほとんどないことも推測を難しくする要因だった)。
そして、これだけ世の中に創作作品が溢れかえった現代においても、物語の展開を見て衝撃を覚えることがあるものなのだと驚いた。
もしかしたら安部公房の「砂の女」を読んだ時以来の驚きかもしれない。
我慢と理性と滅びの美学
筆者がエレンの選択になぜ驚いたのかと言うと、ジークの選択(ユミルの民から子孫をつくる能力を奪う、安楽死計画)に理解を示していたからだ。
人によってジークの選択をどう受け取るかは分からないが、筆者はもしかしたら我慢に慣れ過ぎてしまっていたのかもしれない。
もちろん、我慢は悪い事ばかりではない。
我慢――つまりは理性――がなければ、人々は簡単に罪を犯すだろうし、自分や家族のために他者に害をなすだろう。
だから、動物的な生存本能を抑えて理性を尊ぶことは、社会を形成するうえでとても大切なことだ。
しかし、行き過ぎた理性は個を殺す。
例えば、いじめにしろ、仕事にしろ、人間関係にしろ、悩みや苦痛を抱え込んで人生に終止符を打ってしまう人は残念ながら存在している。
よって、筆者は我慢は大切であると思いつつ、行き過ぎてもいけないと思っている。
しかし、本当は我慢側に寄り過ぎていたのかもしれない。あるいは太宰治の「斜陽」を美しいと感じたように、創作作品によく見られる滅びの美学を好んでいるのかもしれない。
我慢の象徴的存在と自由の体現者
作中に不戦の契りという概念が出てくる。
始祖の力を継承した者は、エルディア人の罪を受け入れて戦わない精神(契約?)のこと、あるいはそのような洗脳のことだ(筆者のおおまかな認識)。
この不戦の契りは我慢の象徴的存在だ。自由を求める精神と対をなすと言えば分かりやすいだろうか。
そう考えると、エレンは自由の体現者だ。
さんざんファルコからの忠告を無視して暴れ回ったガビでさえ、後に自らの行動を悔やんでいるシーンがあった。そのように、人が潜在的に持っている己を律する社会性や共感性を、エレンは意にも介していないように見える。あたかも足枷を壊してしまったかのように。
社会は我慢という秩序で成り立っている
先述したとおり、社会を形成するうえで我慢は欠かせないものだ。
現代を生きる我々は、法律や条例や規則、ルールやマナーと言った、国際的、国家的、都市的、組織的、文化的な決まり事を守る生活を当然のものとしており、そのことにすっかり慣れている。
だから、作品世界を眺める時にも無意識のうちにバイアス(偏向、先入観)がかかっていたのかもしれない。
そうでなければ、筆者がエレンの選択に驚くことなどなかったはずだ。
もしも決まり事といった枠組みが破壊されれば、平穏や安定といった秩序は崩壊し、他者を疑い、傷つけ合い、文明は衰え、いずれ崩壊するだろう。
筆者は自由のない世界には反対だが、秩序のない混沌だけの世界にも反対だ。
自由のために秩序は必要であり、秩序のために自由は必要だ。
自由も秩序も、結局はバランスが肝要なのだ。
ジークの安楽死計画は、実は妥協案である
話を戻そう。
筆者がジークの選択(安楽死計画)に理解を示した理由……
それは、ジークの選択が妥協案であるからだ。
ジークの計画によれば、エルディア人は世界に秩序を提供をする(巨人化能力を持つエルディア人を子孫を作れない体にする)代わりに、自由を得る(放っておけば勝手に滅亡するから手出ししないでくれ)。
政治や交渉事で重要なのは、お互いの主張に折り合いをつけることであり、双方が妥協できる着地点を探すことだ。そうすることで大きな損害を避けることができたり、取り返しのつかない対立構造を生み出さずに済んだりする。
そういう意味で、ジークの考え方には理があると筆者は考えた。
ジークはエレンとは異なりマーレで生まれ育った。
それゆえに、彼の主張の根幹には悲観的な考え方が根付いていると思う。
エルディア人は世界に勝てないという考え方だ。
(この記事を書き始めた時にはジークはエレンほど独善性が強くないのかとも思ったが、計画を優先(あるいはエレンを優先)してファルコを巨人化させているし、そもそも安楽死計画自体がパラディ島の人々の意思を無視した独善的な計画である)
だからこそジークはエルディア人を救うことではなく、妥協案である安楽死計画を企てたのではないだろうか。
エレンは利己実現のための妥協をしない
一方、エレンの選択(目的)には妥協点がまったくない。
己が願望のために、自分たち以外のすべてを犠牲にする決断を下している。
エレンの対比的存在として描かれていたガビは、パラディ島の人々が悪魔ではないことを知って、彼らに対する態度を改め始めた。
知らなかった相手の姿を理解することで、局所的な争いは治まる。
しかし、エレンは相手を理解したうえでなお、地ならしにより世界中の人々を駆逐する道を選んだ。
人には相手の善良性を知れば知るほど攻撃を加えにくくなる精神性、つまりは我慢する機能が備わっていると筆者は考えている。
しかし、生まれ持った資質のせいか、あるいは地獄のような経験のせいか、ともかくエレンのそれは壊れているように見える。
だが、それがミスリードであり、エレンのそれが正常に機能していたとしよう。
……それはそれで安全装置が壊れていると思う。
さらに言えば、エレンは世界を相手にして勝つつもりでいる。
もしくは、勝つ覚悟を決めている。
おそらく、エレンの辞書には諦めや妥協といった言葉は存在していない。
それほどまでに自由に焦がれているのか……
大切な人たちを守るためなら悪魔にもなれるのか……
ともかく、我慢を忘れたかのようなエレンの利己主義まる出しの選択は、良くも悪くも彼の強靭的な、あるいは狂人的なメンタルを持っていないと辿り着けない答えであっただろう。
感想(?)は以上です。
読む人見る人によってところどころ認識が異なる箇所もあったかと思いますが、そういった違いも漫画やアニメを鑑賞する際の面白いところだと思います。
今後の展開が非常に楽しみで仕方がありません。