皆さまはTwitterやfacebookなどのSNSはやっていますか?
私はTwitterだけやっていますが、それは主に記事や動画を投稿した時に通知することが目的です。
誰かのツイートを見ることはほとんどありません。
たまにリアルタイムで気になった事柄を検索するくらいでしょうか。
いまいち有効活用できていないような気がします。
SNSはとにかく情報量が多いので、見る側に回るとすべての時間を持っていかれるような気がしてあまり好きではありません。
そんなSNSが苦手な私ですが、フォローしていただいた方の中には、メッセージを送って積極的に交流を図ろうとしてくださる方もいます。
これが陽の者ですか……
率直に言って、こちらとしては気後れすると共に「すごいな」という素朴な感想しか思い浮かびません。人と関わるの怖い。
では、私のような陰の者は会話が嫌いなのかと問われれば、実は意外とそうでもないのです。
喋るのは嫌いじゃない
人と話すのは嫌いではありません。
それどころか、むしろ好きだったりします。
どれだけ会話が好きかと言いますと……例えば、私はちょくちょく友人と通話をするのですが、一回の通話で平均1〜2時間程度はだらだらと話しますね。
生憎、ブログなんてものをやっていると、日々の発見や苦悩には事欠きませんから。喋りたいことはたくさんありますし、聴きたいこともたくさんあります。
長い時には7時間ぐらい通話していた事もありますね。
…この長さになると、さすがに相手次第ですけれど。
建設的な会話は楽しい
人と話すのは楽しいですよ。
自分の知らない情報や知識、経験などを聴くことができますし、自分としてもそれらを吐き出すことで新しい気づきがあったり、なんでもないような話が記事のネタに昇華するなんてこともあります。
会話の有用性については以前にこちらの記事で書いていました。
よろしければご覧ください。
あと、これはちょっと私が変なだけかもしれませんけど、
就職活動時のグループディスカッションも嫌いじゃなかったです。
面接なんかよりも遥かに気楽でしたし、参加者それぞれの性格や特質が見れて楽しかったです。
「この人は何も考えてないっぽい」とか、
「彼は仕切りたがりで強調性が皆無だ」とか、
「彼女は明らかにできる人だな」とか。
今まで気づいていませんでしたが、どうやら私は人間観察が好きみたいです。
こういう楽しみ方をしている人、絶対に私以外にもいますよね?
交流するのは面倒くさい
これだけ会話が好きなのに、なぜか通話の着信やメッセージが届いた時には面倒くさいと感じてしまいます。
そこで、改めて面倒に思ってしまう理由を考えてみました。
長話になってしまうため
一つ目に思い浮かんだ理由は、ついつい長話になってしまいがちだから、です。
例えば、仮に2時間程度のお喋りをした場合、1日の活動時間の1割を持っていかれてしまいます。
これは結構手痛いです。
会話をしながら頭を使わない作業ができれば良いのですが、実際には頭を使う作業ばかりなのが実情です。バランスが悪い。
いつになったら1日が48時間になるのでしょうか?
気を遣ってしまうため
気心知れた家族や友人はともかくとして、知らない人や知人クラスの人と話すときには、下手なことを言わないように気を遣って話します。
相手の好きそうな話題・嫌いそうな話題は何かと考えたり、
口が軽い人か固い人かを判別しようとしたり、
出さない方がいい情報のボーダーを引いたり、
その結果、とても疲れます。
…これって気を遣うと言うよりも、相手を信用していないからなのかもしれませんね。
警戒してしまうため
さらに、私の場合はパッシブスキル「人間不信」を取得しているため、コミュニケーションを図ってくる相手にはまず疑ってかかります。
どのような企みがあって近づいてくるのか?
どのような悪意を秘めているのか?
良くない事だとは分かっていますし、自分でも疲れるので止めたいのですが、幼少期からの癖なので、すっかり身体に染みついてしまっています。
具体的には、自宅を出てから帰宅するまで常に周囲を警戒しながら生活しているため、体から力が抜けなくて肩こりが酷い有り様です。
意識の問題と言うよりは、生物としての防衛本能です。
だから人との交流に関しては、ビジネスのような利害関係の間柄の方がかえって気持ちが楽だったりします。
まとめ
交流が面倒くさいというのは実は誤解で、本当は信用していない相手とはあまり関わりたくないことが原因のように思います。
だから、喋るのが好きであることと、交流が面倒くさいという考えは矛盾していません。
そこで悩みとなるのは、知らない相手をどのようにして信用するのかと言う話です。
せっかく相手からメッセージを送ってもらっても、こちらが勝手に警戒して疲れてしまいますからね。
陰の者には険しい課題です……
以上、『喋るのは好きだけど交流は面倒くさいという矛盾』でした。